メメント・モリ

私、幼い頃から死を人一倍恐れていたような気がします。小学校低学年くらいからかな。死を身近に感じていたというか。例えば、夜に寝床で横になる。何かの拍子に自分の手が自分の心臓にあたってしまうとかで自身の心臓の拍動を感じる。そんなとき、いつこの心臓のトクトクがなくなってしまうんじゃないかと恐れて、当たっている手をどけてみたりだとか。

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ただし、そういえば母方の祖父は私が小学校2年生のときに亡くなったんですが、この時の感情ってなんか独特だったんですよね。離れて暮らしており、そうそう会えるわけではなかったけれど、優しいおじいちゃんだった記憶がある。

おじいちゃんはおじいちゃんであり、優しく、愛情に富んでいるのが当たり前という感覚だったので、小学校の同級生が「おじいちゃんなんかいなくなってしまえばいいのに」というのを聞いてびっくり仰天したことも覚えている。今から思えば義父(同級生から見れば父方の祖父)と同居している母親からの受け売りだったんだろう。

そんな優しいおじいちゃんが亡くなった時、どんな感情だったか。死ぬ前に病院にお見舞いに行ったときにはまだ自分よりも幼いいとこが病室で騒いでおり、(ここはもうちょっと静かに過ごす場所なんやで、静かにすべき雰囲気なんやで)と思ったことは覚えている。

しかし、実際に亡くなった時のことはよくわからない。亡くなる瞬間に病床にいたわけでもないだろう。子どもにはまだ早いと祖父から離されていたのかも。

お葬式の場か、お通夜の場か忘れたが、姉が泣いていたことを記憶している。それを見てようやく「これは悲しい事態なんだ」と理解した気がする。火葬場には連れて行ってもらえなかったことも覚えている。これまた子どもにはまだ早いという判断が働いたのだろう。

まだこのときには「死」というものがどういうものか、わかっていなかったんだろう。

こう書くと、冒頭で書いたような、「幼い頃から死を恐れていた」というのはちょっと違うような気がする。

 

「死」について考え出したきっかけは覚えている。

実はうちの両親は、というかうちの家族は私が幼い頃から一つのちょっとした嘘をつき続けていたんですが、その嘘が他人から暴かれたことがきっかけ。

年を取れば必ず露呈する嘘なんですが、なんでそんなしょうもない嘘をついたんでしょうかね。しょうもないことだから子どもにとって大した影響はないと考えたのか。とにもかくにも親としては多少悩むことがあって、その悩みをクリアするために苦し紛れに嘘をついたら案外バレもせずにハマってしまったということなんでしょう。

とにかくそれ以来、人よりも死について考えることが多い人生であると思っている。

人間、多かれ少なかれ死について考えるんだろうけど、私はその程度が深いような気がする。

 

小学校高学年のときには親が死んでほしいと思ったことがあるし、また自分が死んでしまいたいと思うこともあった。なにかの親子喧嘩の折に、その希望を言ってしまったことがある。母親が慌てていたように思う。

 

中学校に入れば、早くも中二病に侵された同級生が

を学校に持ってきていた。自分にとっては怖い本だった。貸してくれようとしたが、読めば引き込まれそうな感じがして遠慮した。

宗教について学ぶことがあり、生や死は古今東西、時代を問わず悩むことなんだとわかった。

学年が上がり、漢文や倫理を学び、老荘思想を知った。あるがままに生きるのがよいということらしい。素晴らしい思想ではないか。

いや、老荘思想道教について詳しく勉強したとうわけではない。しかし、あるがままでいい、というのは素晴らしい。Let it beというやつか。

生や死に固執するのはやめ。かっこ悪い。ありのままに生き、ありのままに死んでいくのがいい。それが理想的やーん。

いや、だからこそかっこいい死に方をしたいなんてことを考えてしまいます。生に固執しない死に方を。で、死んだあとはどうなるんやろ。遺灰を海に流してもらうなんて素敵かも。ロケットに乗せて宇宙葬なんてのも魅力的かもなぁ。そんなことを考えていた。

 

なんでこんなことを書こうと思ったか。

ヤフーニュースである霊園の樹木葬の記事が出ていたからだ。

故人に似合う木の根元に埋葬して100年間管理し、その後は原生林に戻るに任せる。墓標として植樹するのではなく自然の森林を利用する

んだそうだ。

墓標は置かない。1本の木を家族で占用できるタイプや、他の家族と共用するタイプを用意した。使用料は場所によって異なり、15万~120万円。森林の手入れはするが、ほぼ自然に任せるため、毎年の管理料は不要とした。

だそうだ。

いいねぇ。

本当にあるがままなんであれば死を迎えたら墓などおかずに葬式などせずにさらされていくんだろうけど、さすがに現代社会に合っていないしね。それに、死後の世界なんて信じていないけれど、だからどこか墓があればそこからずーっと下界を見ていたいなんてことは思わないけど、子どもや孫にたまには思い出してほしいじゃないですか。その時に一応は「墓」があればそのきっかけになりそうやん。

でもそれでも死後100年経ったあとの子孫なんてもう私のことなんて覚えてもいないだろうからそのときには墓としての役割も終え、原生林に戻って自然に還ると。素晴らしい。うん。