henkendameningen.hatenablog.com
続き。
みなさん、自身の死後に入る墓というのは決めてたりするもんなんでしょうか。
先祖代々の墓がある人はそこに入るんでしょうか。
現代じゃ、親から離れたところで住んでる人も多いだろうし、都会に住んでる核家族なんかはそういうふうにもいかないでしょうね。
都心部にも霊園あり。狭い土地でも多くの人を埋葬できるように個人認証されると先祖のお墓が浮かび上がってくる(なかには一応お骨が入っている)みたいなバーチャルもしくはロボットお墓とでもいうようなもんもある。もちろん経営者は反社会的人物、ということもあろう。
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これまた私が死を意識するようになったのは、うちの親がよーく墓の話をしていたからだ。
うちの親といえば結構信心深いほうだと思う。
初詣には神社に行き、お彼岸は欠かさずお墓に墓参り。家には神棚があり、父親は神棚に毎日手を合わせる。仏壇はなかった。クリスマスにはクリスマスパーティーを行い、大晦日にはお寺に除夜の鐘をつきに行く。家に仏壇はなかったなぁ。
特定の宗教に傾倒しているというわけではないけれど、広く神仏を受け入れるという日本人的な宗教観に沿っているわけだ。ただ、その一つ一つがやや深く、重いというだけで。
お彼岸でなくても私が帰省したときの実家でのイベントとして墓参りは組み込まれていた。田舎なんでそれ以外のイベントがなにもないということもあるけれど、とにかく墓参りには行く。物心ついたときからそう。父親が自分の親(私から見れば祖父母)に対する思いが非常に強いんだろうと、最近になって気づいた。
幼い頃は墓参りに連れられていって、手を合わせる際に、「おじいちゃんおばあちゃん、よろしく」てな感じで祈っていた。暑い時期には、「おじいちゃんおばあちゃん、このお水で暑さを和らげてな」と、お水をかけたり。しかしある時気づいた!俺、おじいちゃんおばあちゃんに会ったことないやん。どんな人かも知らんのに敬愛できるわけねーやん、と。
そう、私が生まれる前に父方の祖父母はなくなっているのだ。もちろん思い出などない。一応手は合わせるけれど…、思うところは少ない。ただ、父親を形成した人という以上の感情は持てない。
で、その墓と同じ墓地内にありながら少し離れたところにあるのがうちの両親の墓ということらしい。生前から権利を買っているのだとか。生前から買っておくって、普通のことなんですかね。私には分からない。墓地不足ということが言われた時代も合ったので、先に手を売っておいたのかもしれない。
「この墓の場所を覚えておけよ!」と言われていた。つまりは私達が死んだらここに入るのだから、お前が墓の世話をするんだぞということだろう。また、お前もゆくゆくはここに入るんだぞ、と言われているような気がしないでもない。当時はそれに対して疑問を抱かなかった。
しかしねぇ、今となって思うに、そんなことなんの意味があんのよ。子々孫々まで墓の世話とかいう厄介事を押し付けていくつもりだろうか。大した家系でもないのに、たいして受け継ぐ財産だの土地だのないのに関わらず、子孫を何の価値もないような田舎にずーっと縛り付けておくつもりだろうか。わけがわからない。
だいたい、そりゃ先祖がいなけりゃ自分はいないわけで、そういう意味では感謝はしておりますが、思い出もない先祖にかける情などないだろう。祖父母を知らない私が言うのだ、間違いない。
世間一般では夫婦で一緒の墓に入る入らない問題というのがあるということを聞くが、これもびっくりである。死後に一緒の墓に入ろうが入らまいがどっちだってええやん。そりゃ、妻から面と向かって「あなたと一緒の墓に入るつもりはありません」なんて言われたら、少しだけ、ほんの少しだけ寂しいような気もするが、死後まで妻を縛り付けておけないよ。わたしゃそう思います。
だから、やっぱり妻にも子孫にも負担をかけないような埋葬方法がベストよ。死んでいった人など、お盆やお彼岸のときに少し思い出してくれればそれでOK。